クズの自覚

クズの自覚を持っていて、なおかつそれを直そうと努力している場合、無自覚で向上心のないクズよりもマシなのだろうか。

どちらもクズであることには変わりない。

人間というのはグラデーションだ。常に確固たる態度でいるわけでもない。

時間や場所によってもクズ度は変わるし、他者からの評価となると尚更だ。

結局クズであるという主観のもと、自分の判断でこれは良し、これはダメとその都度ジャッジを下していくしかないのである。

 

Twitterで某小説の組分け診断が流行った。

流れに乗ろうと設問に答えていて気づいたのだが、すべての設問に迷う余地がある。

私なら絶対にこうはしない、という選択肢がないのだ。

それはつまり、私なら絶対にこうする、という選択肢もないことを意味する。

ケースバイケースだろそれは、と感じる設問があまyりにも多い。

問題文の説明不足、定義不足にいちいち突っかかりたくなる。

遊びなんだから適当に答えればいいものを、30分近くかけて回答する羽目になった。

 

Twitterでの私は善人だ。

そう振る舞えているかどうかは別として、チャットで主人公気質のお人よしを演じていた流れで未だに偽善者をやっている形だ。

全部が嘘なわけではない。私の中にある善人部分を取り出しているだけだ。

先述の通り人間というのはグラデーションなので、クズな私の中にも正義感はある。熱い気持ちもある。人と人が仲良くしていれば嬉しいし、傷つけ合っていたら悲しい。

そんな善人部分だけで設問を答えるのは楽だし、望んでいた通りの答えも出るだろう。

しかしそれでは本当の組分けにはならない、と思ったらしい。

本当の本音で答えるとどうなるか試してみたくなった。

 

結果は打算的で狡猾な人間が集まるというあの寮だった。

 

ややショックな反面、どこか安堵した。

やっぱり私はこういう人間なんだと、客観的に言ってもらえた気がした。

別にその組分けに優劣があるわけではない。

それでも心のどこかで主人公の属するグループにいたかったという気持ちがあった。

そして、お前は別に主人公でもなんでもないんだよ、と証明してもらえたような気がした。

 

悪い部分だけを抜き出して本性と言いたがるのはなぜか、みたいな議題もあるわけだし、私が本音だと思って入力したのは「あえて私の悪い部分だけで選んだ」選択肢だということもある。

善人部分の私だけが私なわけではないように、心が荒んでいるときの私だけが私なわけでもない。

そういうニュートラルさを失わずにいたい。

とか言ってるからグラデーションの幅がどんどん広がっていっちゃうんだぜ。

 

 

クズの話どこいった?

 

 

 

 

あの子の夢を見た。

場所は実家だった。

初めてあの子の顔を見た。

初めてあの子の名前を聞いた。

初めてあの子の声を聴いた。

長い長い間積み重なった疑問や心のわだかまりが解けていくような時間だった。

日に透ける茶色い髪を撫でた。

しっかりと男の形をしている背中に頬をつけた。

これが最初で最後だと、わかっていた。

 

買い物でも行こうということになり(たぶん)、あの子が先に玄関を出た。

私は夫の存在を思い出し、玄関を出ることができずに立ち尽くした。

どうしよう。あの子に好きと言ってしまった。あの子も好きと言ってくれた。

そんなの最低だ。

9年前とは違うのだ。

夫を裏切ることはできない。

大好きだったのに顔も見ず名前も知らず声も知らずに別れなくてはならなかったあの子が目の前にいるとしても。

 

私は玄関の中で、じっと自分の靴を見ていた。

ふと外を見ると、そこにはもうあの子はいない。

日の光を浴びて白く光る石畳と、晩春の匂いがした。

そこでようやく私は玄関を一歩出る。

 

 

目がさめると、あんなに忘れまいとした顔も名前も声も思い出せなくなっていた。

大好きだった人と大好きだった実家を、目覚めると同時にまた失った。

その代わりのように、大好きな夫が隣で眠っている。

 

こんな朝を死ぬまでに何回迎えることになるんだろう。

決まりきっているのに惑わされるこんな決断を何度下さなければいけないんだろう。

 

それでも、夢でもあの子に会えたことを心から喜んでいる自分がいる。

何度選ぶ苦しみを味わってもいいと、考えている自分がいる。

 

 

書くということ

パソコンからブログにログインできるようになった。

できるようになった、というか、ログインしてみただけなんだけど。

母のFBでシェアされていたブログを気に入り、読者登録をするためにスマホで同じページを開くのが億劫だったので、そのままパソコンでログインして読者登録をした。

そしてこの記事を書くに至っている。

 

人が書いた文章を目にする機会が増えた、と思う。

人、というのは、企業に属する、何かしらの業務を背負った人、ではなく、その人がその人として発信している文章のことだ。

面白いと思うのが匿名はてな。よくTwitterでバズっているので目にする機会も多い。

感覚としては、長文を前提とした2ちゃんねる

書き手として利用したことがないのでどういうシステムになってるのかはいまいちわからないが、書いたら書き捨て。バズっても筆者は不明。1000年語り継がれる詠み人知らずの歌。これは違うか。

とにかく、そんなに長文でしたためたい思いがある人が(そしてそれを不特定多数に見せたいという欲求のある人が)たくさんいることに驚いた。

これ10数年前のブログ全盛期時代におっさんたちが思ったことなんだろうな。笑

ただ、ブログやTwitterはアカウントがある以上自分の家として、人格をもって振る舞うことが前提となっているけれど、匿名はてなはそうじゃない。そこに一貫しているべき人格は存在しないから、責任もない。

Twitterにも責任なんかあるもんか、とも思うけど、有名人が過去の発言を拾われて矛盾点を叩かれているところを見ると、やっぱり1アカウント1人格、ということへの縛りは厳しいように思える。

徹頭徹尾一貫した発言。過度にそれを求められるアカウント式sns(適当な造語)に疲れた人たちが、普段言えないようなことを長文で書き捨てる場は、需要があるんだろう。

 

私もここを含めて誰にも見せないブログを何個か持っている。飽き性なので数日間更新しては何か月も間を開けたりしているけれど、気が向いたその時々の心境を文章として書き起こし、保存しておくことにはそれなりに価値を感じている。

いや、誰にも見せないなら一個に絞れよ、と思う。我ながら。

しかし数年単位で間が空いてしまうと、その当時の自分の文章が黒歴史に思えて、真新しい今の感情を並べて置くことにどうしても抵抗を感じてしまうのであった。

 

他人の上手い文章を読むと、私も書きたい、と思う。

というか、書ける、と思う。かつて書けたという自信がある。そして、今はその時より劣っているという自覚と恐怖がある。書かなくては、と思う。

というわけでこうして数か月ぶりに筆をとることになる。そして続かない。

 

思えば父も母も書くことが好きだ。発信することが好きだ。

父は私宛てに毎回長文メルマガを送ってくるし(笑)、母は主婦相手の自営業なので、仕事としてブログを更新したりFBで記事を書いたりしている。ライターとしてもたまに活動しているようだ。

こういう両親の共通項に気が付くと、両親がただの男女だった頃のことに思いを馳せてしまう。こんな話が弾んだんだろうな、とか。

 

 

最後の投稿は11月。引っ越して環境が変わるより前のことだから、随分昔のことのように感じる。

Twitterのフォロワーが、自分の文章が好きだから、あとで読み返すために文章を書いている、と言っていたが、同感だ。

数か月前の病んでいるときの自分が、「今は苦しいが、これを読む未来の自分が面白がってくれるだろう」などと病んでいるくせに妙に俯瞰したことを言っていた。

そうそう、そういうことですよ。

 

 

 

好きだと思っていた感情の正体

ある人のことを好きだと思っていた。

可愛くて優しくて、天使みたいな人だ。守ってあげたくなるような抜けたところもあるが、筋の通った人だ。

 

私はその人を独占して、周りの奴らにマウントを取っていたかった。

自分がそんな素晴らしい人の唯一無二の存在であるという欺瞞が欲しかった。

普段の言動で、例えば好きなものを覚えておくとか、誕生日には手間と時間をかけたプレゼントをするとか、もっと日常的な様々な気遣いを放棄して、来るはずもない危機の時には自分の身を呈する覚悟がある、などと宣った。

 

誰に対する好意でも同じだ。

恋人でも親でも。

普段からできる小さな気遣いへの努力は怠って、それでも世界一好きだからとか、いざという時にはとか、極端な選択で相手を選ぶ覚悟を見せつけていれば赦されると思っている節がある。

最低最悪のクズ野郎で、愛なんて語る資格すらない。

結局のところ人生の最後を捧げる覚悟なんか、生活を少しずつ割いてあげることよりもずっとずっと軽い。

そのことに気づくのに随分な時間がかかったし、気づいてからも改められる気がしない。

そのくせ自分が少しでも蔑ろにされると拗ねて怒り出す。

心底自分が嫌になる。

 

頑張り方がわからない。

日々を生きてごく限られた人に愛情を向けるのに精一杯だ。

それが私の器だからそれ以上は望むなということなんだろう。

 

理想と現実が遠すぎるな。四半世紀も生きているのに。

父が死ぬ想像をしてしまい眠れない。

海外への引っ越しを2週間後に控え、落ち着かないせいだろうか。

最近体調不良で歩くことも出来なくなってきたという父を置いて海外に行くことへの罪悪感にも似た不安がまとわりついて離れない。

海外にいる間の連絡は取れるのだろうか。

同居しておらず、今両親の面倒で忙しいという父の彼女は、父と毎日連絡を取ってくれるのだろうか。

万一のことがあった時、いち早く私に連絡をしてくれるのだろうか。

7年前家を騙し取られ、古く汚い市営住宅で一人暮らす父。

そんなところで孤独に生を終えるなどということになったら私は一生悔やむかもしれない。

やはりまともな職について父にまともな住環境を工面すべきだったとか、自分の夢なんか後回しにして父を安心させてやりたかったとか、孫との幸せな余生を過ごさせたかったとか。

自分にはどうにもできないようなことまで悔やむかもしれない。

結局は自分の心配なのかもしれない、けど、父には幸せでいてほしい。

せめて再婚でもしてくれれば。

側に誰かいるのならこんなに不安に思うこともなかっただろうに。

 

ソシャゲにおはようと言われた

3ヶ月ぶりに筆をとる。

眠れないのは1人の夜だけだったようだ。

同居人と一緒に寝るようになってから日記を書くのをやめてしまった。日記を書いている途中で話しかけられでもしたらなにも書けなくなってしまうだろうから当然だ。当然か?

 

数年の付き合いがあるネットの友人が数年前に書いた文章を読んで感心するなどしていた。

彼ほどの言語能力をもってしても言葉にコンプレックスがあると言わしめてしまう現実とは一体どんなものだろうね。

大人になるにつれ自分のいろいろな欠損をコンプレックスに思うことも忘れて呑気に生きてきてしまった私は彼のように真面目に欠損を嘆く人に出会ってしまうと自分が恥ずかしくてたまらなくなる。その欠損が私には見えないのでなおさら。

 

同じ夢を持つ人と付き合ったら、私の方が実力があるだとか、才能があるだとか、そんな不確かな根拠で妬まれる。

そうでない人と付き合ったら、夢を持っている私が羨ましいと僻まれる。

どーすりゃええっちゅーねん。

私ごときの生き方をカッコいいとか思わない人と付き合いたい。まさしくただのクズなので。

でもただのクズだと思う人はそもそも私を許せないだろうし、やっぱり、私よりクズな生き方をして私より輝いている人と一緒にいたい。

そんな人は私のことなんか見ない。

それでいいんだけど、それじゃ人間関係成立しないよな。

 

人と人が生きていくって難しいな。

正義ってお前さあ

職場のバイト連中の間で某マルチが流行った。というより、勧誘マンがバイトとして入ってきて、数人が釣れた。その数人に私が入っていた。最初に言っておくと、私はマルチには加入していない。勧誘マンの人柄に好感を持っていたし、彼の持っている技術を頂こうと思いセミナーに参加した上で、マルチは無理や、とハッキリ断った。

でも他の数人は乗り気だったようなので、まあ頑張れという気持ちでいた。話を聞く限り法に反しているようなことはないし、失うものといえば友人くらいのようだ。

稼げる人は稼げるだろうし、稼げない人は稼げないだろう。どこの業界でも同じ、向き不向きというものがある。

 

で。今日職場に行ったら、幹部社員に呼び出された。

テーブルを挟んだ向かい側に社員2人。

「マルチ、やってるの?」

ストレートかよ。

「やってません」

「○○(勧誘マン)と楽しく話してて熱心にノート取ってたりセミナーに参加してたって聞いたけど」

「勧誘マンとは楽しく話しましたしセミナーにも行きましたが、マルチには加入してません。するつもりもありませんし、彼にもきっぱりと入らないという意思を伝えてあります」

「信じていいんだよね?」

「はい」

一応は信じてもらえたのか、社員が話し出した。

勧誘マンが他のバイトの子にも勧誘をしていること。系列店で過去にも同じような事例があり、バイトが全滅したこと。私がもしマルチに加入していたら、クビを切るつもりだったこと。勧誘マンはもう見限っている、ということ。

ふーん、と大人しく聞いていたが、社員の言葉に引っかかった。

「結局ああいうの信じるのは頭悪い奴なんだよね。俺は正義の味方でいたいからさ、こういう間違ったことがまかり通ってたら見過ごせない」

……そうですね、正義の味方は悪役の話を聞きませんもんね。

そりゃ信じるもクソもないし、相手方を悪役に仕立て上げて頭が悪いと一蹴してしまえたら楽でしょうよ。

 

頭が良い悪いで他人を二分する人間はクソダサい。

いや、二分すること自体は別に良い。私だって明らかに話が通じない相手を見下さずに居られるかと言ったら難しい。ただそれを公言して、自分はわかってます、自分は頭いい側の人間です、と主張するのは死ぬほどダサいと思う。

他人に言ってもらえないから自分で言うしかないんでしょう?

今までバイトとしてでもかなり職場に貢献してきてくれた人を、クズ野郎と決めつけ(本当にクズ野郎と言った)、自分は正義の盾に守られてるつもりなんだろうか。

思考停止も甚だしい。

別に勧誘マンを庇うつもりではない。彼ならどこにいっても割と上手くやるだろうし、今現在金に困ってるわけではないらしいし。

ただ私は彼の話をちゃんと聞いた。聞いた上で、自分の状況や資質や知識と照らし合わせ、自分で考え得る最も合理的な判断としてその誘いを断った。自分の頭で判断を下した。

 

だからスッキリしない。

不穏分子を排除して、それが会社のためなのか。世間の評判は判断材料にはなっても、それを盲信して常識ブレードでぶった切っていくのは果たして正しいのか?

思考停止して、他人を否定して、それを正義だと宣うのか。

そりゃ戦争もなくなんねーわ。

 

この世に正義なんか存在しない。

自分が正しいという思い込みはあまりにも傲慢だ。

他人を変えることはできない。

共存するために話し合い、歩み寄り、お互いが変わっていく。それを成長と呼ぶんじゃないのか。

正義を信じることは成長を拒むこととほとんど同じ意味なんじゃないか。

 

そんなことを中学生ぶりに考えた一件だった。