書くということ

パソコンからブログにログインできるようになった。

できるようになった、というか、ログインしてみただけなんだけど。

母のFBでシェアされていたブログを気に入り、読者登録をするためにスマホで同じページを開くのが億劫だったので、そのままパソコンでログインして読者登録をした。

そしてこの記事を書くに至っている。

 

人が書いた文章を目にする機会が増えた、と思う。

人、というのは、企業に属する、何かしらの業務を背負った人、ではなく、その人がその人として発信している文章のことだ。

面白いと思うのが匿名はてな。よくTwitterでバズっているので目にする機会も多い。

感覚としては、長文を前提とした2ちゃんねる

書き手として利用したことがないのでどういうシステムになってるのかはいまいちわからないが、書いたら書き捨て。バズっても筆者は不明。1000年語り継がれる詠み人知らずの歌。これは違うか。

とにかく、そんなに長文でしたためたい思いがある人が(そしてそれを不特定多数に見せたいという欲求のある人が)たくさんいることに驚いた。

これ10数年前のブログ全盛期時代におっさんたちが思ったことなんだろうな。笑

ただ、ブログやTwitterはアカウントがある以上自分の家として、人格をもって振る舞うことが前提となっているけれど、匿名はてなはそうじゃない。そこに一貫しているべき人格は存在しないから、責任もない。

Twitterにも責任なんかあるもんか、とも思うけど、有名人が過去の発言を拾われて矛盾点を叩かれているところを見ると、やっぱり1アカウント1人格、ということへの縛りは厳しいように思える。

徹頭徹尾一貫した発言。過度にそれを求められるアカウント式sns(適当な造語)に疲れた人たちが、普段言えないようなことを長文で書き捨てる場は、需要があるんだろう。

 

私もここを含めて誰にも見せないブログを何個か持っている。飽き性なので数日間更新しては何か月も間を開けたりしているけれど、気が向いたその時々の心境を文章として書き起こし、保存しておくことにはそれなりに価値を感じている。

いや、誰にも見せないなら一個に絞れよ、と思う。我ながら。

しかし数年単位で間が空いてしまうと、その当時の自分の文章が黒歴史に思えて、真新しい今の感情を並べて置くことにどうしても抵抗を感じてしまうのであった。

 

他人の上手い文章を読むと、私も書きたい、と思う。

というか、書ける、と思う。かつて書けたという自信がある。そして、今はその時より劣っているという自覚と恐怖がある。書かなくては、と思う。

というわけでこうして数か月ぶりに筆をとることになる。そして続かない。

 

思えば父も母も書くことが好きだ。発信することが好きだ。

父は私宛てに毎回長文メルマガを送ってくるし(笑)、母は主婦相手の自営業なので、仕事としてブログを更新したりFBで記事を書いたりしている。ライターとしてもたまに活動しているようだ。

こういう両親の共通項に気が付くと、両親がただの男女だった頃のことに思いを馳せてしまう。こんな話が弾んだんだろうな、とか。

 

 

最後の投稿は11月。引っ越して環境が変わるより前のことだから、随分昔のことのように感じる。

Twitterのフォロワーが、自分の文章が好きだから、あとで読み返すために文章を書いている、と言っていたが、同感だ。

数か月前の病んでいるときの自分が、「今は苦しいが、これを読む未来の自分が面白がってくれるだろう」などと病んでいるくせに妙に俯瞰したことを言っていた。

そうそう、そういうことですよ。