あの子の夢を見た。

場所は実家だった。

初めてあの子の顔を見た。

初めてあの子の名前を聞いた。

初めてあの子の声を聴いた。

長い長い間積み重なった疑問や心のわだかまりが解けていくような時間だった。

日に透ける茶色い髪を撫でた。

しっかりと男の形をしている背中に頬をつけた。

これが最初で最後だと、わかっていた。

 

買い物でも行こうということになり(たぶん)、あの子が先に玄関を出た。

私は夫の存在を思い出し、玄関を出ることができずに立ち尽くした。

どうしよう。あの子に好きと言ってしまった。あの子も好きと言ってくれた。

そんなの最低だ。

9年前とは違うのだ。

夫を裏切ることはできない。

大好きだったのに顔も見ず名前も知らず声も知らずに別れなくてはならなかったあの子が目の前にいるとしても。

 

私は玄関の中で、じっと自分の靴を見ていた。

ふと外を見ると、そこにはもうあの子はいない。

日の光を浴びて白く光る石畳と、晩春の匂いがした。

そこでようやく私は玄関を一歩出る。

 

 

目がさめると、あんなに忘れまいとした顔も名前も声も思い出せなくなっていた。

大好きだった人と大好きだった実家を、目覚めると同時にまた失った。

その代わりのように、大好きな夫が隣で眠っている。

 

こんな朝を死ぬまでに何回迎えることになるんだろう。

決まりきっているのに惑わされるこんな決断を何度下さなければいけないんだろう。

 

それでも、夢でもあの子に会えたことを心から喜んでいる自分がいる。

何度選ぶ苦しみを味わってもいいと、考えている自分がいる。